大正時代は、女性の美しさが強調されつつも、その美貌が必ずしも幸せな人生を保証しない時代でした。ここでは、大正三美人と称された4人の女性の波乱万丈な人生を掘り下げ、彼女たちが直面した苦難と挑戦を描き出します。これらの女性は、単なる美しさだけではなく、その内面の強さと信念が彼女たちの生き方を形作りました。
最初に紹介するのは、九条武子です。彼女は大正三美人の一人として知られ、大正時代を代表する歌人でした。武子は明治20年(1887年)に京都に生まれ、名門の大谷家に育てられました。幼少期からフランス語や絵画、短歌を学び、知識と教養を兼ね備えた才色兼備の女性でした。彼女は23歳で男爵の九条吉宗と結婚しますが、夫が結婚後すぐに天文学を学ぶためにロンドンへ留学することになり、武子も一緒に渡英しました。
ロンドンでの生活は順調とは言えず、夫婦は別々に行動することが多く、武子は義理の姉と地中海を旅する一方で、吉宗はケンブリッジ大学で勉学に勤しんでいました。やがて武子はロンドンから日本に一人で帰国し、その後も夫の帰国を10年間待ち続けます。
武子はその間、歌集を出版し、京都女子専門学校を設立するなど社会活動に尽力しました。しかし、夫が長年ロンドンで過ごす中で、現地での浮気の噂も絶えず、武子の人生は忍耐と孤独に満ちたものでした。
次に紹介するのは柳原白蓮、華族出身の歌人であり、大正三美人の一人です。彼女は宮崎明子という名前で生まれ、幼少期に北小路家の養女として育ちました。しかし、彼女は16歳で知的障害を持つ夫と無理やり結婚させられ、その結婚生活は暴力と恐怖に満ちたものでした。最終的に白蓮は夫と離婚し、その後、九州の炭鉱王である伊藤伝右衛門と再婚しましたが、この結婚も決して幸せなものではありませんでした。
白蓮は伝右衛門との結婚生活の中で、短歌に打ち込み、「白蓮」という雅号を得て歌人として活躍しました。しかし、宮崎隆介という青年と恋に落ち、二人は駆け落ちすることを決意します。この事件は当時の新聞で大々的に報道され、「白蓮事件」として広く知られるようになりました。白蓮は最終的に伝右衛門と離婚し、隆介と新しい生活を始めましたが、彼女の人生は決して楽ではなく、戦争で息子を失うなど、多くの困難が待ち受けていました。
続いて紹介するのは、江木欣々(本名はA子)。彼女も大正三美人の一人で、芸者として名を馳せました。欣々は幼い頃から様々な家庭に引き取られ、ついには新橋の芸者となりました。その美貌と才能で多くの男性を魅了し、16歳で男爵と結婚しますが、夫は結婚後わずか1年で病死します。
再び芸者として戻った欣々は、弁護士で詩人の江木中と再会し、彼と結婚しました。二人の生活は華やかで社交界でも注目を集めましたが、関東大震災でその生活は一変します。震災の影響で夫も亡くなり、欣々は失意の中、精神的に疲弊し、最終的には自ら命を絶ってしまいました。彼女の孤独な最期は、時代の波に翻弄された女性の象徴とも言えるでしょう。
最後に紹介するのは、林きむ子。彼女もまた大正三美人の一人と称され、その生涯は波乱に満ちていました。幼少期から舞踊を学び、様々な芸事に通じていた彼女は、若くして政治家の日向輝竹と結婚し、豪華な生活を送りました。しかし、夫が政治スキャンダルに巻き込まれ精神を病んでしまい、その後亡くなります。
きむ子は夫の死後、薬剤師の林流派と再婚しますが、その再婚は世間から批判され、大正時代を代表するスキャンダルとなりました。流派も後に愛人を作り失踪し、きむ子の人生は再び困難に見舞われました。しかし、彼女は舞踊家としての道を貫き、昭和41年には「勲五等瑞宝章」を受賞し、その生涯を通して自分の芸を極めた女性として名を残しました。
大正時代を彩ったこれらの美人たちは、ただ美しいだけでなく、その美貌が逆に彼女たちの人生に試練をもたらしました。彼女たちの物語は、時代を超えた強さと忍耐、そして美しさの真の意味を教えてくれます。